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戦乱の時代

戦乱の時代

中岳合戦 文明六年(1474) ~ 寿古踊・沖田踊・黒丸踊・大村寿司 ~
大村家の記録によると、島原半島一帯を支配していた有馬貴純は総勢二千人を率いて、大村へ攻めて来ました。対する大村勢は、長岡越前(150名)、庄左近太夫(120名)、鈴田道意(200名)、大将大村純伊(230名)の総勢700名という陣立てでした。
戦いは有馬勢の勢いが大きく、そこに重ねて大村勢の鈴田道意が寝返った事もあり、大村勢は敗北し、大村純伊は、僅かな軍勢を連れて逃亡し、領土奪還をうかがいます。7年後、大村純伊は、西肥前の豪族の力などを借り、大村の領土を取り返します。
その時の領民の喜びは大変なもので、「沖田踊」「寿古踊」「黒丸踊」が披露されたと言われており、これらの踊りは、現在でも受け継がれています。また、このとき勝ち戦に賑わう侍たちの空腹を満たすため、領主がもろぶたにご飯をしき、その上におかずをちらして押さえたのを、侍たちが脇差で四角に切って食べたのが、大村名物「大村寿司」の始まりと言われています。


大村寿司

沖田踊

寿古踊

黒丸踊

沖田踊・寿古踊・黒丸踊の三踊は"国指定重要無形民俗文化財"に指定されています。

大村純忠とキリシタン~大村純忠の幼年期・大村家相続・キリシタン大名へ~
大村純忠は天文二年(1533)、有馬晴純(島原)の次男として生まれ、4歳の時に大村家の養子として大村家に送り込まれました。その時、大村家には又八郎という後継ぎの男子がおりましたが、武雄に出されます。後年、大村純忠は大村家の子でありながら武雄に養子に出された後藤貴明(又八郎)に何度も攻撃を受けています。
 天文十九年(1550)、17歳になった大村純忠は正式に大村家を相続しました。その時の大村領は今の大村市だけでなく、現在の時津町・長与町・長崎市・諫早市の一部・東彼杵町・川棚町・波佐見町・西海市・佐世保市一部に及び、これらの地域の小領主たちは常に周辺の大名からの誘いもあって、いつ謀反(むほん)が起るか油断ならぬ情勢でありました。こうした厳しい周囲に悩む純忠の前に現れたのが、キリスト教とポルトガル貿易でした。純忠は、永禄五年(1562)横瀬浦にを開港し、ポルトガルとの貿易を始めました。
 続いて、純忠は永禄六年(1563年)に洗礼を受け、キリスト教名を『ドン・バルトロメウ』と名乗りました。日本初のキリシタン大名です。

三城七騎籠り 元亀三年(1572)
大村純忠は、戦国時代で世の中が乱れてきたため、永禄七年(1564)山城の三城城を築きました。その後、三城城は、突然、武雄の後藤氏・平戸の松浦氏・諫早の西郷氏による連合軍(総勢1500名)に取り囲まれました。このとき、純忠は7名の家臣と共に城内に取り残された状況にあったそうです。そんな圧倒的不利の中、城外にいた純忠の家臣の一人「富永又助」が、諫早軍の大将を負傷させる大事件が起き、突然のことに浮き足立った諫早軍は、混乱の中退却し始めます。状況は一転し、純忠側がそれを激しく追撃し、ついに諫早軍は大将を討ち取られました。その状況を見た平戸軍も大村湾へ向かって逃走します。また最後まで残った武雄軍は諫早・平戸両軍の離脱に加え、自分についていた大村側家臣らが、再び純忠側へ戻った様子に敗北を理解し、ついに逃走を決め、武雄に帰国しました。
 純忠は絶体絶命の場面で、家臣らの働きにより、逆転勝利を得ました。

菅無田の合戦 天正五年(1577)
佐賀の「龍造寺隆信」は多くの兵を率い、山を越えて、萱瀬の谷へ来襲しました。このとき純忠は今富城に兵を集め、迎え撃つ用意をしていましたが、萱瀬の武士たちは、少しも抵抗せずに自分たちの村に踏み込まれることを不満に思い、菅無田の砦に立て篭もりました。
立て篭った兵士は必死に抵抗しましたが、とうとう討ち死にしてしまいました。しかし、龍造寺勢の被害も大きく、琴平岳に陣を構え、休憩をとっていました。この機会をチャンスと考えた純忠は、明け方に奇襲をかけ、龍造寺の軍を追い返したと言われています。

天正遣欧少年使節
ヴァリアーノは、日本人をローマに派遣し、キリスト教布教の成果を宣伝し日本へのキリスト教布教の資金を調達しようと考えました。また、日本人にもヨーロッパのすぐれた文化文明を見聞させたいと思いました。
大村純忠、大友宗麟、有馬晴信のキリシタン大名らは、10代半ば4人の少年をローマに派遣しました。一行はヨーロッパで大歓迎を受け、ローマ教皇との謁見を果たし、活字印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り、日本文化に貢献しました。彼らが長崎港を出帆して400年目を記念し、4人の少年の偉業をたたえるため、長崎空港へ渡る箕島橋のたもとに顕彰像が建てられました。左からマンショ、ミゲル、マルチノ、ジュリアンです。
 帰国後、日本は禁教時代を向かえ、少年たちは様々な苦難を強いられたようです。
1602年頃、千々石ミゲル、棄教
1612年頃、伊東マンショ、病死
1614年頃、原マルチノ、マカオに追放
1633年頃、中浦ジュリアン、長崎の西坂で処刑


天正遺欧少年使節像

玖島城築城 慶長四年(1599)
 現在の大村公園は、桜や花菖蒲(はなしょうぶ)の季節には県内・県外からたくさんの人が見物に来られます。
この公園は、初代藩主「大村喜前」が築き、十二代藩主[大村純熈]まで270年あまり、大村藩の政治の中心になった玖島城の跡です。玖島城は玖島と言う半島に築城されました。現在は埋め立てで陸地と繋がっています。なぜ玖島が選ばれたのかと言うと、三方が海に囲まれ、敵から守りやすく、敵が攻めにくいからです。玖島城築城の工事は慶長三年(1598)の末から始まり、翌年の慶長四年(1599)に完成しました。加藤清正の指導で改築されたと伝えられている石垣は、急勾配で高度な技術をうかがわせます。

 

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